チラシの裏

落書き帳兼メモ帳 雑多なゴミを処理する場所

Κοιμηθείτε ήσυχα, μέρος της ψυχής μου.

内容的にBlaze of LifeとかSorrowとか聞いて思いついた訳ではないが内容的に被る

 生きとし生けるものは皆Blaze of Life命の炎を宿している。その程度は違うが、生きている限りは例外なく燃え続けている。例え動物であろうと植物であろうと。しかし神が定めた摂理により、いつかこの炎は消える事が予め決まっている。それが早かれ遅かれ自分の身にもその時が訪れるのだ。

 ――しかし昨日はその"消える日"であった。目の前で静かに揺れていた炎は目の前で消えたのだ。
 いつか来ると分かっていたが、未だにこの現状を理解出来ない。頭が受け入れようとしない。先程まで生きていたのだ。だが今となってはただの亡骸になってしまった。あの時を境に。
 今は部屋の片隅で静かに眠るように居る。いつ目覚めてもおかしくないが、今後一切目覚める事は無い。

 最期に命の炎が消える時はたくさんの炎の中で静かに消えていった。自分の命の炎でもう一度灯したかったが、それも到底叶わない。一度消えた灯火は再び灯る事は無いのだ。
 まるで最期は最後まで燃えていた蝋燭のように静かに炎が消えていった。握った手はもはや冷たさを覚え、意識が混濁としていたのか、呼びかけにも応じなかった。ただ静かに眠ってゆっくりと、浅い呼吸をしていた。
 そして時間が経過していくごとに呼吸感覚が長くなり、午後3時半頃についに呼吸が止まった。脈も希薄になっていき、ついに止まった。一つの灯火が消えたのだ。

 仏教の教えで生病老死と愛別離苦という教えがある*1が、これは人間として生きる以上切っても離せない関係である。人は生まれ、病み、老い、そして死ぬ。釈尊はこれら全てが苦しみの原因であるとし、また愛するモノ*2があるからこそ失うのが辛いという事を説いた。人間は誰しも何かを愛し、それを失う事を恐れる。2000年以上前に説かれた説法だが、今のこの時代も変わらない教えであり、未来永劫変わらない真実でもある。永遠など最初から無いのだ。
 今回実際に失い苦しむ事になったが、釈尊の教えを知っていたからこそ多少は立ち直れる。苦しみの原因が分かっているからこそ対処は出来るのであろう。

 しかしこの記憶はいつしか風で砂が飛ばされるように消えていくであろう。また1つ大切な物が無くなった部屋からは記憶がまた1つ消えていく。いつしか全てを思い出せなくなる時が来るのであろう。
 だがこの忘却に抗うためにこの文章を書いている。膨大なネットの海は時が過ぎるごとに消え失せていく記憶を留める役割を果たすであろう。

 そして最期にかけた言葉が"Κοιμηθείτε ήσυχα, μέρος της ψυχής μου.我が魂の一部よ、安らかに眠れ"である。いつかこの癒えぬ傷跡が塞がる事を信じて――

*1:正確には四苦八苦の中の一部

*2:ここでは人以外にも物やペットなども含む